経験がなんぼやで

ポジティブ雄(お)の

梶村俊明です

海外の記事を書く

2回目の
海外に行ったのは
アメリカから3年たった
1988年の夏

高校2年の夏休みに
1週間連れの正野(親友)と
今、緊張状態の韓国に2人で行った

なんで
韓国に行ったかというと
その頃は今みたいに
日韓関係が悪くなく
ただ単に近かったから行った

まだ海外旅行が簡単やなく
格安ツアーや格安航空券もなかった
時代やったから
ホテル、現地ツアー等の予約は
公衆電話から海外電話で
やったのを覚えている

交通手段は
夏休みの企画で学割があった
大阪~下関(新幹線)
下関~釜山(フェリー)
釜山~ソウル(特急列車)
の往復切符でいった

交通手段で印象に残っているのが
関釜フェリーで
乗船して出航前の時点で
ゲロゲロになったもんや
暑い・臭い・揺れるの三拍子で
殆どの乗客が死んでいた
帰りのフェリーは
ちゃんと酔い止めをしたから
全然大丈夫やった

現地のタクシー運転の
粗さもびっくりしたで

むこうでは
日本で予約していた
板門店(38度線)ツアーも印象的やったわ
今でも一緒やと思うけど
韓国人は亡命の危険があるから
参加はできず、外人のみのツアー

ツアーに参加する前に
「命の保証は要りません」の用紙に
記入させられるツアーで
ツアー中の注意事項も
・北朝鮮側を指で指すな
・ツアー中にサングラスを外せ
・ポケットに手を入れるな
・大きい声を出すな
・手をふるな
等の制約がいっぱいあった

板門店は非武装地帯とされていて
いつ何かがおこってもいい様に
韓国側は常にピリピリしている
状態の場所や

板門店からソウル市内までの
距離が近い事もあって
いつでも軍隊が出動できる状態にある

今まで3回行ったが
いつも緊張状態が続いている

板門店からソウルまでの道も
凄く警備と施設が整っていて
直ぐにソウルに辿り着けない
ようになっている

因みに
北朝鮮側から板門店に行った時は
何の制約もなく
緩い感じやった

板門店から平壌も遠いのもあるし
韓国と違って
進行を止める事ができる施設等は無かった

ただ単純に
板門店から平壌に行く道路が悪いから
簡単にたどり着けないと思った

1988年は
韓国の民主化運動全盛の時で
民主化運動を目撃した

日本に居てる時には
そんな情報は一切なかった

俺たちが泊まっていたホテルが
ソウル教会のすぐそばで
ソウル教会が民主化運動の
最前線やったみたいで

ホテルに帰るまでに何回も検問をされた
ひどい日はホテルまでの道を
完全武装した人間バリケードで
何列も作り、ホテルに辿り着くに
無茶苦茶時間がかかった

民主化運動は夜に勢いがあり
毎晩、火炎瓶を投げていた
待ちのあちこちで火が上がっていた

ホテルの廊下で下の様子を見ている時に
同じホテルの人が外に出たみたいで
その人は数分後に殴られて帰ってきた

明洞地区が盛んにデモ等を
やっていた印象でその他の
地域で毎晩悪ガキの2人は飲んでいた

その頃の
韓国人はみんな優しく
特に俺があった年寄りは
みんな日本語が喋れて
日本好きのいい人ばっかりやった
北の将軍家族の文句は言っていた

まあ
今も俺が会う人は
みんな日本好きでいい人ばっかりやけどね~

今まで
海外いっぱい行ってるけど
反日を感じた事がない

ポジティブ過ぎる俺に
ネガティブの人が
近寄ってこれないのと一緒で

親日過ぎる俺に
反日の人が
近寄ってこれないのやと思うわ

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